葬儀で塩を用いる習慣は、単なる気休めや迷信として片付けられるものではありません。その背景には、塩という物質が日本の文化や精神史の中で担ってきた特別な役割と、我々が古代から受け継いできた独特の死生観が深く関わっています。塩が持つ「清め」の力は、どこから来たのでしょうか。その源流は、生命の源である海への信仰に遡ることができます。四方を海に囲まれた日本では、海は幸をもたらす豊かな存在であると同時に、すべてを飲み込み、洗い流す強大な浄化力を持つ場所として畏れられてきました。その海から採れる塩は、海の生命力と浄化力を凝縮した聖なる物質と見なされたのです。日本の神話においても、塩は重要な役割を果たします。黄泉の国から帰還したイザナギノミコトが、海水で身を清めて穢れを祓った「禊(みそぎ)」の神事は、塩による浄化の原型と言えるでしょう。また、神様へのお供え物である神饌には、米、酒、水と共に塩が欠かせません。これは塩が神聖で清浄なものであることの証です。こうした背景から、塩は目に見えない邪気や不浄なものを祓う力を持つと信じられるようになりました。相撲の力士が土俵に塩を撒くのも、土俵を清め、怪我などの災いを祓うためです。盛り塩を玄関や店先に置く風習も、外部からの邪気を払い、清浄な空間を保つための結界として機能しています。この「清浄」を尊ぶ精神性が、神道における「穢れ」の概念と結びつきました。神道でいう穢れとは、罪や不潔さではなく、生命力が枯渇した「気枯れ」の状態を指します。死は、その最もたるものです。この生命力が減退した状態を元に戻し、再び日常の清浄な世界に復帰するために、生命力と浄化の象Gである塩が用いられるようになったのです。つまり、葬儀の塩は、故人を貶めるものでは決してなく、死という大いなる力に触れた生者が、再び「生」の側へと無事に戻るための、文化的な装置なのです。この小さな塩の一つまみには、自然と共に生きてきた日本人の、繊細で奥深い精神世界が映し出されていると言えるでしょう。
塩で清める日本古来の死生観