私が「清めの塩」という存在をはっきりと意識したのは、高校生の時に祖父を亡くした日のことでした。それまで身近な人の死を経験したことがなく、通夜も告別式も、ただ現実感のないまま、黒い服を着た大人たちの流れに従っているだけでした。すべての儀式が終わり、斎場を出る際、受付にいた係の方が参列者一人ひとりに、会葬礼状の入った手提げ袋を渡していました。その中に、小さな白い紙包みが入っているのに気づきました。母がそれを取り出し、「これはお清めの塩だから。家に着いたら、玄関に入る前に体に振りかけるのよ」と、小さな声で私に教えてくれました。その時の私には、母の言っている意味がよくわかりませんでした。「清める?どうして?」という疑問が頭に浮かびました。大好きだったおじいちゃんの死に触れた自分が、どうして清められなければならないのか。まるで、汚いものにでも触れてきたかのような言われ方に、子供心に少しだけ反発を覚えたのです。悲しいけれど、決して汚らわしいことではないはずだ、と。車で自宅に戻り、玄関の前に家族全員で立った時、父がおもむろに塩の包みを開けました。そして、まず母の、次に私の、最後に自分自身の胸元と背中に、黙って塩を振りかけました。制服のブレザーに当たった塩の粒の、ざらりとした冷たい感触だけが妙にリアルでした。その一連の行為は、私にとって不思議な儀式にしか見えませんでした。しかし、その行為が終わって玄関のドアを開け、いつもの家の匂いを感じた瞬間、張り詰めていた何かがふっと解けていくのを感じたのです。葬儀という特別な空間の緊張感、祖父を失った悲しみ、それらがごちゃ混ぜになった心を抱えたまま日常に戻るのではなく、玄関先での塩を振りかけるという一つの区切りを経たことで、心にスイッチが入ったような感覚でした。塩に穢れを祓う力があるのかどうかは、今でもわかりません。しかし、あの日の私にとって、あの塩は確かに何かを「切り替えさせてくれる」不思議な力を持っていました。それは迷信ではなく、悲しみと向き合いながらも再び日常を生きていかなければならない残された者たちのために、先人たちが遺してくれた心の作法、一種の知恵だったのかもしれないと、今ではそう思えるのです。