先日、遠縁の親戚の葬儀に参列した時のことです。告別式を終え、斎場からそれぞれの家路につく場面で、ある一家の玄関先でのやり取りが私の心に深く残りました。その家は、祖母、息子夫婦、そして高校生の孫娘という三世代が同居しています。玄関のドアを開けようとする息子に、祖母が厳しい口調で声をかけました。「待ちなさい。家に入る前に、ちゃんとお清めをしなさい」。そう言って、ハンドバッグから清めの塩を取り出し、まず息子に渡そうとしました。すると、息子は少し困ったような顔でそれを制しました。「母さん、うちはもうそういうのはやらないんだよ。故人の宗派も浄土真宗だったし、死を穢れと考えるのは失礼にあたるから」。彼の言葉に、祖母はカッと目を見開きました。「宗派が何だっていうんだい。昔からこうやって穢れを祓ってから家に入るのが当たり前だろう。縁起でもない」。孫娘は、祖母と父の間の気まずい空気にどうしていいかわからず、ただ黙って俯いています。祖母にとって、清めの塩は家族を災いから守るための、長年体に染み付いた大切な儀式でした。一方、息子は、故人の信仰を尊重し、死を不浄なものと見なす行為はしたくないと考えていました。彼の妻も、静かに夫の隣で頷いています。「これは日本のしきたりなんだ」と食い下がる祖母に、息子は「そのしきたりが、僕たちの今の考え方とは違うんだ。気持ちはわかるけど、強制しないでほしい」と静かに、しかしきっぱりと返しました。玄関先での短い、しかし根深い対立。それは、単なる儀式の方法論を巡る争いではありませんでした。世代間の価値観の違い、信仰心と慣習の間の葛ăpadă、そして家族という近い関係だからこその遠慮のなさが、その場に凝縮されているように見えました。結局、祖母は諦めたようにため息をつき、自分自身の体にだけ念入りに塩を振りかけると、不満そうな顔で先に家の中へ入っていきました。残された息子夫婦と孫娘は、なんとも言えない表情で顔を見合わせています。この出来事は、葬儀の塩という小さな習慣が、いかに人々の死生観や信仰心と深く結びついているかを象徴しています。どちらが正しいという問題ではなく、互いの考えを尊重し、理解しようと努めること。家族が集まる葬儀という場は、時としてそうした対話の必要性を私たちに突きつけてくるのかもしれません。
葬儀の塩で家族の意見が分かれた話